前回のコラムで書きましたとおり、
5月の連休は家族で鹿児島知覧に行って参りました。
新幹線で鹿児島中央駅に行き、JR指宿枕崎線に乗り換えて指宿へ。
何だかんだで家を出るのが遅くなりましたので、指宿に到着したのは午後7時頃。
お陰でその日はホテルで慌ただしく食事をして砂風呂に入り、就寝致しました。
翌日は朝からどうやって知覧まで行くかを嫁さんと話し合い、取りあえず指宿駅に行って
考えようと言うことに、、、
駅前をうろついていた所、さいわいな事にキャンセルで残っていたレンタカーを確保できて、知覧に向けて出発。
せっかく指宿まで来ながら何一つ見ることもなく移動という、毎度おなじみの古閑家の行き当たりばったりの家族旅行でした。・・・(笑)
知覧には指宿からⅠ時間程度で到着し、
さっそく知覧特攻記念会館を見学致しました。
知覧特攻記念館は、事前に聞いていたとおりの所でした。
もっと早く来るべきでした。
学生時代に来ていれば、その後の人生は変わったかもしれません。(変わらん!、、、と嫁さ
んは後ろで笑っていましたが、、、)
そのくらい、私にとっては感動と衝撃がありましたね。
館内には特攻隊員の遺影写真、遺書などがたくさん展示されていました。
その雰囲気に圧倒されましたね。
写真撮影が禁止されていましたので、お見せできないのが残念です。
特攻前日に撮った写真の数々。
覚悟が出来ているのか、みんな笑顔で、そんなことはみじんも感じさせません。
最年少は17歳。
純真無垢に笑っている少年の姿が忘れられません。
また、特攻隊員が最後に書き残した遺書の数々。
この若さでこんな遺書が書けるのかと衝撃を受けました。
ほとんどが母に宛てた手紙。
最後はやはり母親なのでしょうか、、、
母上様、
今まで23年間、一点の曇りもなく育ててくださいまして、
ありがとうございました。
私は今まで親孝行の一つもできませんでした。
でも、今回、命を受け、晴れて特攻隊として
お国のために尽くすことができます。
最初で最後の親孝行になります。
もしも、私が、成功しましたら、
「せがれ、でかしたぞ」と
言ってやってください。
母上様の息子に生まれて23年間、
私は幸せでした。
ありがとうございました。
“最初で最後の親孝行”というくだりはぐっとくるものがありましたね。
私の子ども達も、きっと何かを感じ取ってくれたことでしょう。
それにしても、特攻に行った若者達は私の父とほぼ同年代。
選りすぐりの秀才であることはもちろんの事、
高い心肺能力と運動神経、さらには冷静な判断能力などを総合的に持ち合わせた、
きわめて優れた若者ばかりでしょう。
もし、生きて帰ることが出来たならば、きっとそれなりの人生を歩むことが出来たと思います。
この方々の犠牲のお陰で、いまの自分たちがあることを忘れてはならないと思いました。
帰りに立ち寄った武家屋敷
余談:
鹿児島中央駅で食事をした際、私が息子に一品交換したいと申し出たところ、
あっさり断られました。
いつもながらの古閑家の光景ですが、知覧の後だっただけに、
あの感動は何だったのか?敬う心はないのか?と現実にかえりましたね。
所詮、古閑家はこの程度でしょう。
やっぱり、みんなが希望したハウステンボスの方が古閑家にはあっていたのかもしれませんね。・・・(笑)