創業者のお父様はどんな仕事をなさっていたんですか?
創業者:父親は海軍におったんです。それで、第一次大戦が終わって復員して、上通りで小さな雑貨屋をしていた。そこで私は生まれたんですが、しばらくして坪井の方に移ったんです。
当時、こういう仕事に就きたいという、目標はお持ちだったん でしょうか?
創業者:戦時体制だったし、なりたい職業というのもなく、殆ど貸家住まいで皆貧乏だし、自分の家を持っている人も少なかったからね、『家を持てたらいいなあ』と思っていました。それで熊本工業の建築科を出て、第六師団経理部工務科といって、今で言う防衛庁の施設課みたいなところに入ったんですよ。熊工の建築に行った理由もね、別になかったです(笑)。『自分の家を持ちたいなぁ』というぐらいでね。そのころは皆、希望も持ってなかっただろうと思うんですね。建築の就職先も多かったけれど、軍の関係の仕事しかなかったですから。
祖父は海軍出身で、とても厳しかったようです。
父の小学校時代のエピソードで、
祖父が木刀を持って小学校に出向き、
先生を追いかけ回したことがあると、
笑いながら話していました。
よほど腹に据えかねる何かがあったのでしょうね。
また、祖父が第一次大戦が終わって復員して上通りで小さな雑貨屋を開いていたとき、
品物の裏に仕入れ値を書いていて、
それを見たお客様が小馬鹿にしてきたので、
木刀を持って追いかけた話も聞いています。
まぁ短期な性格だったのでしょうね。
商売人としては失格で、ほどなく店は閉めたようです。
私たち孫には優しかった祖父ですが、
そんな一面もあるのだと、子ども心に恐れおののいていました。
80年以上前の話ですが、今だったら警察沙汰です。。。(笑)
父も多分にその性格を受け継いでいて、
私は父から木刀で何度か殴られたことがあります。
落ち着きのない性格でしたので、
何か父の機嫌を損ねたのでしょう。
最後に殴られたのは中学生の時でした。
それ以降はありません。
また結婚して分かったのですが、
嫁の父も同じ熊本工業出身で偶然にも同級生でした。
父は建築科で、嫁の父は土木科。
互いに昔のことで、あまり覚えていないようでしたが、
当時は何らかの交流があったかもしれませんね。
そう思うとロマンが湧きます。
父が熊本工業の建築科を志望したとき、
祖父は、“そんなやくざな世界はやめろ”と言ったそうです。
当時の建設業界がよほど怖い世界に見えたのでしょうね。
父はなりたい職業はとくになかったと言っておりますが、
祖父の反対を押し切ってこの世界に飛び込んだわけですから、
何か考えはあったと思います。
出征前に撮った写真。
6/26の水害で昔の写真は殆どダメになってしまったが唯一残る写真。
高校卒業後は、軍関係の第六師団経理部工務科に就職しています。
口では言いませんが、やはり祖父の思いが伝わったのでしょう。
次に続く