戦時下の青年時代
熊工を卒業後、第六師団経理部工務科に就職されたわけですが、当時は軍関係の仕事ばかりで就職も選択肢が限られていたわけですね。
創業者:そうです。そこには1年ほどおりまして、私が入った頃はちょうど満州や南方から帰ってくる人が多くてね、話を聞いては、いいなあと思っていた。私は寒いところは嫌いで、行くのであれば南方だと思って、東洋語学専門学校(今の熊本学園大学)の夜間で、1年間マレー語を勉強したんですよ。
その後は福岡にある西部軍経理部の工務課に転属したり、現場を点々として。要は、軍関係の倉庫やら兵舎を建てる時の現場監督ですね。福岡に1年程おりましたら上司から呼ばれて、『沖縄に行くか、山口の仙崎(山口県長門市)に行くか』と迫られた。仙崎というのは魚が釣れるところでね、その頃は食料難だったし、『魚が食べられるなら沖縄よりも山口の方がええなぁ』と思ったわけです。今考えるとね、それが運の分かれ目でした。沖縄に行った者は皆、亡くなりましたから。
父が東洋語学専門学校(今の熊本学園大学)の夜間で、
1年間マレー語を勉強したという話は、この時初めて知りました。
勉強は好きではないと言いながらも、
マレー語を自ら習っていたことに興味が沸きました。
きっと、現地で軍関係の施設を建設する際に、
マレー語が話せれば仕事がスムーズに進むと考えたのでしょう。
また、山口の仙崎にいたという話はよく聞いていて、
1年しかいなかったわりには懐かしい思い出が沢山あったようです。
“今でも、行けばわかる人が居るかも知れん”と
私が大学生の頃に言っておりました。
当時の仙崎の写真
機嫌がいいと、仙崎の話をちょくちょくしていましたので、
私は父がこの地にかなり長く居たと思っておりました。
インタビューで1年と知り、意外に思いました。
余程充実した日々を送っていたのでしょう。
私も生きているうちに、
父が懐かしく語っていた「仙崎」に一度行ってみたいと思っています。