戦時下の青年時代 後編
本当に分かれ目ですね。その後も各地に行かれたのですか?
創業者:仙崎には1年おりましたかね。そして鹿児島の吹上浜に移ってからは海岸警備をして、穴を掘ったり、あとは歩哨兵と言ってね、丘の上に立って軍艦が来るか来ないか見る。見張り役ですね。そのときちょうど、長崎の原爆の様子が見えたんですよ。『何か爆発したっだろかなあ』と思って見ていましたよ。それで終戦を迎えて帰って来たけども、仕事は何もなかでしょ。
だから、しばらく雑役して、西松建設という会社に入りまして、水俣の日本チッソの工事現場に行ったわけです。その頃は今みたいな足場もなければ何もなかったですから、丸太を縄でくくって仕事をしていた。地下足袋をはいて、鉄骨の上に上って、ピッケルという登山具を使ってね、トントンと鉄骨を叩いて、『ボルトが揺るんどるけん、ちゃんと締めろ』というふうに、職人さんに指示したり。でも自分も上らないといけないし、鉄骨に上るのは高くて恐ろしかったですよ(笑)。
スレートを担いで屋根に上がって、風が吹いたら“つこける”職人もいてね。とにかく危なくてしょうがなかった(笑)。そういうこともあったし、給料は普通の会社よりは良かったと思いますけどね、2、3年で辞めたんです。それで熊本に帰ってきたんです
父が終戦まで海岸警備で鹿児島の吹上浜にいたという話は、
このインタビューで初めて知りました。
何年いたのかは分かりませんが、
今までやっていた建築関連の仕事とは直接関係なかったためか、
この頃のことは父からほとんど聞いていません。
西松建設に入って水俣の日本チッソの工事現場にいたという話は聞いておりました。
その後、東京に行かないかという話があったが、辞退したと聞いています。
たぶん、父は要領がいいので上司から気に入られて東京に一緒に行かないかと誘われたのかも知れません。
その話に乗っていれば、父の人生も大きく変わっていたでしょう。
もちろん、私は生まれていません。