当社の創業は1953年(昭和28年)8月1日です。2000年10月に私が2代目社長として引き継ぎ現在に至っております。これまでどんな不況の波にも左右されず、確かな実績を残してこられたのも、創業者古閑靖通が貫いてきた「創業の精神」があったからこそだと思っております。
私が社長に就任した後、その創業の精神を引き継いで行く為に、雑誌編集者の方にインタビューをお願いしました。インタビューは2時間程で終わったようですが、「大変楽しくお話を聞かせていただきました。」との事でした。出来上がった原稿を見ると、私が今まで知らなかった事も登場し、戦後復興から現在に至るまでの波乱万丈の人生を知ることができました。
代表取締役社長
古閑 之博
創業者インタビュー
幼少期
まずは生年月日を教えてください。
創業者:大正15年3月5日です。
どんな子ども時代を送られたのでしょうか?
創業者:子ども時代は勉強はあまり好きじゃなくてね、家に帰ると鞄を投げ出して、外で三角ベースとか野球とか、コマ回しなどで遊んでいました。小学校の5、6年の頃は体操の選手で、上級生に負けんように、クラスでも1、2番ぐらいの鉄棒の腕前だった(笑)。壺川小学校でね。
創業者のお父様はどんな仕事をなさっていたんですか?
創業者:父親は海軍におったんです。それで、第一次大戦が終わって復員して、上通りで小さな雑貨屋をしていた。そこで私は生まれたんですが、しばらくして坪井の方に移ったんです。
当時、こういう仕事に就きたいという、目標はお持ちだったん でしょうか?
創業者:戦時体制だったし、なりたい職業というのもなく、殆ど貸家住まいで皆貧乏だし、自分の家を持っている人も少なかったからね、『家を持てたらいいなあ』と思っていました。それで熊本工業の建築科を出て、第六師団経理部工務科といって、今で言う防衛庁の施設課みたいなところに入ったんですよ。熊工の建築に行った理由もね、別になかったです(笑)。『自分の家を持ちたいなぁ』というぐらいでね。そのころは皆、希望も持ってなかっただろうと思うんですね。建築の就職先も多かったけれど、軍の関係の仕事しかなかったですから。
戦時下の青年時代
熊工を卒業後、第六師団経理部工務科に就職されたわけですが、当時は軍関係の仕事ばかりで就職も選択肢が限られていたわけですね。
創業者:そうです。そこには1年ほどおりまして、私が入った頃はちょうど満州や南方から帰ってくる人が多くてね、話を聞いては、いいなあと思っていた。私は寒いところは嫌いで、行くのであれば南方だと思って、東洋語学専門学校(今の熊本学園大学)の夜間で、1年間マレー語を勉強したんですよ。
その後は福岡にある西部軍経理部の工務課に転属したり、現場を点々として。要は、軍関係の倉庫やら兵舎を建てる時の現場監督ですね。福岡に1年程おりましたら上司から呼ばれて、『沖縄に行くか、山口の仙崎(山口県長門市)に行くか』と迫られた。仙崎というのは魚が釣れるところでね、その頃は食料難だったし、『魚が食べられるなら沖縄よりも山口の方がええなぁ』と思ったわけです。今考えるとね、それが運の分かれ目でした。沖縄に行った者は皆、亡くなりましたから。
本当に分かれ目ですね。その後も各地に行かれたのですか?
創業者:仙崎には1年おりましたかね。そして鹿児島の吹上浜に移ってからは海岸警備をして、穴を掘ったり、あとは歩哨兵と言ってね、丘の上に立って軍艦が来るか来ないか見る。見張り役ですね。そのときちょうど、長崎の原爆の様子が見えたんですよ。『何か爆発したっだろかなあ』と思って見ていましたよ。それで終戦を迎えて帰って来たけども、仕事は何もなかでしょ。
だから、しばらく雑役して、西松建設という会社に入りまして、水俣の日本チッソの工事現場に行ったわけです。その頃は今みたいな足場もなければ何もなかったですから、丸太を縄でくくって仕事をしていた。地下足袋をはいて、鉄骨の上に上って、ピッケルという登山具を使ってね、トントンと鉄骨を叩いて、『ボルトが揺るんどるけん、ちゃんと締めろ』というふうに、職人さんに指示したり。でも自分も上らないといけないし、鉄骨に上るのは高くて恐ろしかったですよ(笑)。
スレートを担いで屋根に上がって、風が吹いたら“つこける”職人もいてね。とにかく危なくてしょうがなかった(笑)。そういうこともあったし、給料は普通の会社よりは良かったと思いますけどね、2、3年で辞めたんです。それで熊本に帰ってきたんです。
黎明期
西松建設を辞めて、水俣から熊本に戻って来たわけですね。
創業者:はい。そして土地家屋調査士の仕事を始めたんです。土地を売りたい農家の方がいて、一方では土地を買いたい人がいる。そういう、土地を売ったり買ったりする際の測量や登記をしているうちに、地主さんや家を建てたいという人と知り合いになって、まあポツポツ、屋根や壁の修繕の仕事をし始めたのが、建築の仕事の最初なんです。
土地家屋調査士の仕事と、建物の修繕をかけもちされていたわけですか。
創業者:2年ぐらいしたら建築の仕事が忙しくなってきまして、土地家屋調査士は自分で測って登記にも行かないといけない。けれども、建築の仕事をやっていたら忙しくて行けないんです。だから土地家屋調査士の資格は持ったままですね。リヤカーを引いて、人を2人ばかり雇って。それでだんだん、人づてで仕事が増えていった。
昭和28年に水害があって、当時は修繕ばかりですけど、建築もだんだん増えて来たということで、29歳ぐらいの時かな、建設業の登録を正式に県に出したわけです。500万以上の建物の仕事は登録しないとできないもんだから。まあ、でもやっぱり修繕の仕事が多くて、始めた頃は『太か家ば建てたかなぁ』という気持ちはありましたね。当時は今みたいに機械も何もないですから、そうなると会社と違って現場監督はできないから、泥まみれになって大工と一緒に働いて、家を建てていましたよ。
最初の仕事は覚えていらっしゃいますか?
創業者:一番始めは確か…、大江に建てた家がありましたね。20坪ぐらいの小さな家ですよ。やっぱり初めのうちはお客さんにもなかなか信用してもらえないですけど、『よか仕事ばしなはる』というふうに、人づてに仕事を受けるようになった。今みたいな細かい設計図もないし、平面図と姿図だけで建ててましたねえ。それでも皆やっぱり、建てた時は喜ばれるんですよ。それで、その人がまた友達に紹介する。それで仕事が増えていって、職人も4人から10人ぐらいに増えて、今度は公共工事も受けられるように、市役所とか県庁に指名願いを提出していったわけです。
昭和30年代
ということはやっぱり、いい仕事ができるから、仕事も増えていったという事ですね。
創業者:それでもやっぱり修繕仕事から始まって(笑)。市役所の仕事で覚えているのは京稜中学校の体育館ですね。昭和37、8年頃でしたか。その前に、昭和32年に合資会社にしたんです。仕事はずっと順調で、仕事がない日はなかったですね。
その他に、記憶に残っている仕事はありますか?
創業者:いちばん神経を使ったのは、今も熊本城の天守閣に展示してありますが、『浪奈之丸(なみなしまる)』という船の模型を受けた時です。これはたまたま受注したんですが、檜の一枚板を見つけるのが、それは大変だった。しかも節があると漆がつかないですから、節のない一枚板を探しました。それからはアパート建築の指名もいただくようになって、市の仕事も何軒も受けましたね。
そうやって仕事も増えることで、社員の人数も増えたと思うんですが、当時、社長として社員の皆さんにはどんなことを言っていたんでしょうか?心構えと言うか、理念として。
創業者:私が言っていたのは、『お客さんと絶対にトラブルを起こしてはいけない』ということ、それから『我を張らないで、例え自分は“これがいい”と思っても、お客さんの言う事はよく聞け』と言っていましたね。『どうしてもという時は俺が出って責任を取るから』と。職人さんは“もっこす”が多いけど、我を張ったりしていると仕事が減って来ます。お客さんから、『あそこの職人はこっちが意見を言うても、もっこすで聞かっさん』というのは、結局悪口みたいなもんですから…。
そうじゃなくて、『あそこの職人は真面目で腕もいいぞ』と言われる方がヨカですもんね。普通の人たちは、本当に職人が上手か下手かということは分からないと思いますよ。ただ、やっぱりお客さんにちゃんと挨拶したり、喜んでもらう事で、お客さんを気持ち良くさせられる。お客さんにしてみれば、上手な人が作っても下手な人が作っても、仕上がってみるとあんまり変わらないですからね(笑)。仕事の早い、遅いはあるだろうけど。昔は、『俺はそがんとせん!』とか言っていた頑固な職人さんもいたらしいですけど、『今はそういう時代と違うぞ』と言ってきかせてましたね。
堅実な経営で着実に
公共工事を受注すると、経営としては安定しますね。同時に、建築技術も進歩したでしょう?
創業者:それはもう、だいぶ変わりました。役所の仕事をしますと、現場監督が来るわけですが、その人達は学問もあるし、言ってみれば専門家ですから、技術も分かるでしょう。だから余計に、しっかりした腕の立つ者が仕事をしないといけない。そうなってくると、鳶、鉄筋、生コン…という風に職人も専門家が必要になってくるわけです。それで、何から何まで少人数でやっていた頃と比べると、仕事も楽になりました。
まあ、時代の流れに合わせて仕事をしていかないといけない時代だということでしょうねぇ。今の世の中は公共工事もだんだん減ってきましたし、業界の中でも倒産したり破産したりした会社も多い。私もずっと無借金経営をしてきて、“借金までして仕事をするな”と思っていました。振り返って良かったと思うのは、バブルの時には銀行から借金して土地を買ったという人も多くて、私のところにもそういう話がありましたが、私はやらなかった。儲かった時は良かったかもしれませんが、高く売るつもりの土地が安くなって、それで倒産した会社もありましたよ。それだけは私もツイていたというかね。
会社が厳しい時期もありましたけど、大きい、危ない仕事に手を出しませんでした。議員さんを使って仕事を取ってもらって、大きくなった会社もあります。しかしそれで成功したものよりも失敗した方が多いと思うんです。その点私は、議員さんに頭を下げて、仕事をもらって、お礼をしたり…。そういうことはしませんでした。だから、あんまり大きくもなれずに(笑)、ずーっとボチボチ、細く長く来たわけですね。ジワジワと。
事業継承して
堅実にやってこられた中で、息子である社長が会社を継ぐことになったわけですか。
創業者:私は60歳になったら仕事は辞めようと思っていたのですが、60歳になってもまだピシャーンとしとるし、倅もまだ任せるような年じゃなかったですから。まだ合資会社でしたし、倒産すれば全部持って行かれますから、まず株式会社にして、倅に社長を譲るならば、今の建物ではいかんぞと思いましてね。それであそこ(現社屋)を建てたんです。それで社長に、やってみなさいと。今は親父の仕事を2代目が継ぐということは少ないでしょう。
ところが、社長が快く継いでくれたのでね、実際には感謝しているんですよ。公共工事も、仕事も減っていく時代に、会社を運営して行くのは大変だろうと思いますから、『悪い時に譲ったなぁ』とも思いますけど(笑)、止めるわけにはいかないから、『思う存分やってくれ』という気持ちですね。社長は東京の大学で構造学を勉強してきたから、初めのうちは『建設業はしない』と言っていたんですが、彼もだんだん『やらなきゃいかん』という気持ちになってきたのではないでしょうかねぇ。
社長の仕事ぶりについては、どう見ていらっしゃいますか?
創業者:幸い彼も会社のために一生懸命やっているし、陰ながら私も喜んでいるんです。とにかく大事なのは精神的な問題だけです。“お客さんと社員を大事にする”、それ以外にはなかですよ。それで行き詰まったらしょうがないです(笑)。
最後に、今の社員の皆さんに伝えたい事がありましたらお聞かせ下さい。
創業者:それは前と同じです。お客さん主体で仕事をしなさいということです。今でもそういう気持ちを持っていますね。振り返ってみると、うちにはお客さんに喜ばれる、よか人間がおりましたね。今でもそうだと思います。それがやっぱり発展につながるんじゃないでしょうか。
SANYUスピリッツ
私たちが思うこと、大切にしているもの
創業の精神を受け継いで
三友工務店は私の父、古閑靖通が昭和28年に熊本市神水本町で創業した会社です。父の幼少期はまさに戦時中で、成人の頃に終戦を迎える厳しい時代でした。皆が貧乏で貸家暮らしが当たり前の中、持ち家への憧れから熊本工業の建築科に進学し、卒業後は第6師団で施設工事の現場監督、終戦後も建設会社で現場の仕事に携わってきました。その後熊本に戻り、土地家屋調査士を経て創業へと至ります。
会社を興した当初は戦後の復興期で、リヤカーを引きながら建物の修繕をするなど苦労もしました。しかし、その地道な努力から少しずつ「よか仕事ばしなさる」と人づてに仕事も増え、やがて市や県の大きな公共工事を手掛けるまでに成長致しました。父は現場の仕事に納得しないと建築途中の家でもイチからやり直しをさせる、いわゆる“もっこす”でしたが、その仕事に対する情熱と揺るぎない信念で多くの信頼を得てきました。
その後に訪れたバブル期には、銀行から借金をして事業を拡大し、バブル崩壊と共に倒産する会社も多くありました。そのような時代でも、私たちは父の「借金をしてまで大きな仕事はしない」「金を失っても、信用を失う仕事はするな」という信念に基づき、堅実で健全な経営を貫いてきました。「おたくの会社は堅か」とよく言われますが、どんな不況の波にも左右されず、確かな実績を残してこられたのも、父が貫いてきたこの創業の精神があったからこそです。
お客様への尊敬と感謝の気持ち
私たちが一番大切にしていることは、三友工務店という会社を信頼し、仕事の機会を与えていただいたお客様を心から尊敬すること、感謝することです。そして、その思いに十分に応える良い仕事をすることで、お客様に喜んでいただければ、これ以上にうれしいことはありません。また、その時に注いだ仕事への情熱が私たちの豊かな経験の蓄積となり、さらなる技術の向上へと繋がっていくことと信じています。これからも私たちは、「信頼を損なう仕事はしない」という創業の精神を胸に、プロフェッショナルな技術屋集団としての責任とプライドをもち、どんな仕事にも真摯に取り組んでいくつもりです。
また、世の中は近年めまぐるしく変化していて、人が住まいに求めることも昔と同じではなくなっています。そのため私たちは、日々技術やデザインを磨き、時代のニーズに応えることをとても大切にしています。また同時に地域に根ざした町の工務店として、どんな時代にも変わらないこだわりも持ち続けていたいと思っています。
私たちは、これから先もずっと、お客様の「あたとこは良か仕事ばしなさる」という信頼と、「あたげに頼んでよかったぁ」という感謝の言葉を心に深く刻み、皆様に愛され、必要とされる存在でありたいと願っています。そして、お客様の想いと、私たちの家づくりに対する熱い想いを重ね合わせ、心に残る本当に良いものを創りあげていきたいと思っています。